第11回研究会「ロボットに内臓はいるのか?:『食べることと出すこと』から考える」

7月27日(水)17:10〜18:55

講師 頭木弘樹氏(文学紹介者) 聞き手:宮地尚子・金井聡(一橋大学)

https://ameblo.jp/kafka-kashiragi/

現在、私たちが当たり前に行っている食事と排泄は、本来、生命にとってどのような意味があるのでしょうか?未来の社会や、未来の人間にとって、これらは変わらず「当たり前」なのでしょうか?頭木氏の著書『食べて出すこと』を切り口に、著者・聞き手とともに考えていきます。

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 本講義で印象に残っている点は2つある。まず一つ目は、食べることの「機能」には、どのようなものがあるだろうか?ということについてである。講義中で引用されていた、バナナを食べることを拒否したことで、与え手から反発を受けたという山田太一さんの「車中のバナナ」の話は、それを考える上での足掛かりとなりうるだろう。要するに、ここでは「食べない」ということが関係性を拗らせるきっかけとなっており、逆説的には「食べること」が関係性を作り出す契機になっているのである。
 同様のことはアメリカの文化人類学者であるマーシャル・サーリンズも論じており、彼によれば食物を供出すること、与えることには関係性を生み出す機能があり、食物それ自体にはその意味が強く付与されているという。実際、私が研究対象としている阿仁マタギの社会では、クマの肉を与え合うこと、そしてそれを一緒に食べることによって、集落の共同体意識がその都度再生産されている。そのため、私自身も、共食は(大小関わらず)集団にとって非常に重要な意味があり、それはある意味逃れられない「呪縛」のようなものであると考えていた。
 しかしながら、頭木さんの話にあったような、家庭内で「食べる/食べない」をめぐる「闘争」があるということ、あるいは、「食べること」に関係性を作り出す機能が強い分、アレルギーなどで食べることができないなどがある場合に<食べることでつながること>が危険性を帯びうることは、私の考えを揺るがすものとなった。また、もてなしを受けた際、それを食べなかったこと、そしてそれを供出者が気にしていなかったことが開放感を感じさせる機会になったという話も同様である。その点で、本講義は自分の自明性を解体する契機となり、今後も「食物」の機能について考え続けたいと思わされた。
 二つ目は、回診の話についてである。患者同士では症状をうまく説明できる一方で、医者が回診にきた際には、本当に言いたい症状の説明とは違う医者の言うことに同意してしまうことが多いという話があった。ここでは「症状」というものが、患者と医者の相互関係によって作られているのではないだろうか。果たして、真に客観的な「症状」というものは想定することができるのだろうか。これは、医者と患者という、専門家と一般人の非対称性に起因するものなのだろうか。だが、症状を経験できるのは患者自身に限られるのではないだろうか。やや粗雑であり、簡易な考えではあるが、頭木さんによる回診の話を聞いて、このようなことを考えた。

地球社会研究専攻修士課程 松浦海翔