2023年度研究会 学生参加記

ここでは2023年度の研究会を「先端課題研究21」(一橋大学大学院社会学研究科)の授業として履修した学生のレポートの一部を紹介します。

科学と社会の未来はどうありえるか

本年度は4回に渡り、さまざまな分野の専門家の方々による科学技術にまつわる成果やその背景にある諸問題についての講義を拝聴してきた。総括となる本レポートでは、先端課題研究の講義目的でもある「人文社会科学と自然科学がどのように連携しあえるか、また、それによってどのような未来を創造していけるか、そのための『総合知』のあり方」を改めて考え直してみたい。

筆者は日々生活していく中で、科学技術の発展に大きな恩恵を受けつつも、手放しに喜ぶことができない側面もあった。それは藤原さんが言及されていた、科学技術の発展の裏にある人々の犠牲や環境破壊を意識してしまうというのも一因である。または久野さんの講義で出てきた「作られた美しさ」が引き起こす大量廃棄を、アルバイトを通して目の当たりにしているからかもしれない。あるいは「便利さ」を装って不便な環境を意図的に生み出し、新たな制度に適応しない人には事実上の排除を強いてくる権力者に対する抵抗とでも言ってみる。科学技術の発展による「便利さ」は、⺠衆にとっての「便利さ」であるべきで、監視や排除を容易にするための権力者にとっての「便利さ」であってはならない。

一方、失われた幸福への執着心というのも科学技術の発展を素直に喜べない理由として挙げられる。かつては頑張って貯めたなけなしのお金を握りしめてCDショップへ行き、CDを買ってプレイヤーで聴くという一連の流れの中にあった興奮と、音楽をついに聴けた時の幸福感は、今やストリーミングサービスの登場により、「面倒臭い」、「高い」、「無駄」などとネガティヴな印象を持たれるようになってしまった。無料サービスや違法視聴が蔓延る現代において、対価を支払うことに対する抵抗が生まれてしまっている。科学技術の発展に伴って生まれた「新たな幸福」の裏にはこうした「失われた幸福」というものも少なくないだろう。

しかし一方で、岩崎さんや、ドミニク・チェンさんの講演会で特に顕著であった、科学技術の進歩による成果というのも、上述したネガティヴな感覚に飲み込まれてはならないと実感できた。生命の起源に迫るといった壮大なプロジェクトや、ブラインプールという神秘的な映像を家にいながら鑑賞できること、あるいはチェンさんが紹介されていたさまざまなウェルビーイングを向上させるための取り組みや道具に至るまで、科学技術の進歩とそれに携わってきた専門家の努力の結果であることは言うまでもない。

人々の幸福さの向上を見据えた自然科学の分野の発展だけ見ていては、失われるものが多くある。そうした失われるものや人々の犠牲に目を向け、声を上げること、人文社会科学の役割だが、それだけでは災害現場で活躍するドローンなどは生み出されない。今後あるべき科学と社会の未来は、人々の幸福度を最大限に高めるためのアクセルとなる自然科学と、危険を察知し、事故を防ぐためのブレーキとなる人文社会科学の両方が同時にうまく機能していくことだということを、4回の講義を通して再確認できた。

筆者の今後の研究においても、人文社会科学の分野における知見を活かしながらも、それだけにとらわれるのではなく、より学際的なアプローチを意識してより多角的な視野を持って取り組んでいきたい。

社会学研究科 修士課程 苧野亮介

私たちは越境することで、どのような未来を創造できるか

本講義では、人文社会科学と自然科学がどのように連携しあえるか、そこからどのような未来を創造していけるのかという問いを起点に、研究者やジャーナリストとして領域横断的に活動する方々との対話からそのヒントを得てきた。本レポートでは、学びの総括として、これまでの科学技術の進展がどのような社会を形作ってきたのか、より良い未来を創造するために人文社会科学と自然科学が連携・越境することがなぜ重要か、筆者の考えを述べる。工業化やインターネットの普及など、科学技術の進展は人々の生活上の「課題」を解決し確実に利便性を向上してきた。一方で、藤原辰史さんが示唆したように、そうした恩恵の多くは自然環境や他者の犠牲の上に成立しており、格差や暴力という別の課題を産み出した。さらに久野愛さんは、科学技術の進展は生産や消費の仕方だけでなく、私たちの感覚や認識のあり方という、所与と捉えられがちな対象でさえ変容させてきたという事実を指摘した。思えば、「日常生活における不便や課題は、手っ取り早く解決し簡単に消化したい」という欲求や、不確実性・不完全性への否定的な反応も、科学技術の進展に伴って増幅してきたのかもしれない。さらには、そのような認識のあり方が多数派をしめる社会が、格差や暴力に無自覚な科学技術を産み育ててきたとも言えるだろう。私たちは今、科学技術の進展と人間の営為の影響を反省的に見つめ直すべき局面にある。それは政策立案者、企業人、活動家、研究者も例外ではなく、より良い社会を創造することを課された全ての人に言えることだ。このような状況において、人文社会科学と自然科学が連携・越境する意義は何だろうか。それは、領域の垣根を超えることで、自らが属する領域の限界を知ることにあると考える。岩崎弘倫さんは、「人間は深海のことをほとんど何も知らない」と教えてくれた。あらゆる領域の叡智を結集して映像を制作するプロフェッショナルほど、領域の限界を知っている。「深海の生物の気持ちになってみる」ことでダイオウイカの出現を予感したカメラマンは、その叡智の境界線に立ち、もうあと一歩と手を伸ばし、身体をつうじて世界と関わろうとしていた。逆説的ではあるが、領域を横断し、ホリスティックなアプローチを試みることは、私たちが世界を認識・理解しようとする試み自体を完全なものにするのではなく、その根源的不完全性を受け容れることに他ならないのではないかと思う。

ただしこれは悲観主義ではない。不完全性を受け入れて未来を創造する営みは、科学技術によって未来を予測可能にしたいという私たちの幻想を柔らかく砕く。そのかわりに、既存の因果関係図式や、課題解決に基づくアプローチでは枝葉として切り捨てられてきたものにも再び注意を払うことを要請する。実際、ドミニク・チェンさんは、工学、自然科学、デザイン、人類学などの領域を越境し、これまで切り捨てられてきた「弱さ」「遊び」を不可避の前提とする形で、後続世代の子どもたちやマイノリティと共創する実践を模索していた。このような先人達の実践からは、人間の不完全性、未来の不確実性を排除するのではなく、むしろ中心に据えることで、知識の産出、未来の創造に向かう新しい可能性が示唆される。ある領域に閉じた実践、その限界に無自覚な技術や知識は危うい。私たちが世界を認識し、理解しようとする試みは根源的に不完全であることを自覚し、境界の外へ外へと手を伸ばす時、別の手もまたこちらに伸びている。人文社会科学と自然科学が手を取り合う時、社会は「ありえたかもしれない」未来の豊かな可能性に向けて拓かれていくのではないだろうか。

社会学研究科 修士課程 橋麻衣子

科学と未来はどうありえるか
—「不完全さ」に着目して—

科学と社会の未来について、「不完全さ」に焦点を当てて考える。価値観が多様化している現代社会において一概に言えることではないが、社会において「完全であること=良い」「不完全であること=良くない・悪い」という価値基準がある程度浸透している。少なくとも、真逆の価値基準が根付いているとは言えないことは確かだ。そのため、科学に対しても社会は、その「不完全さ」に否定的な意味合いを付与する。

科学技術には、人間が苦手とする部分を代わりに担ったり、人間が不便だと感じている部分を改善したりする役割がある。その他にも、人間の印象を操作するために科学技術が用いられることもある。久野愛さんは、農業技術や輸送技術、印刷技術といった科学技術の発展が、食べ物の色に対する感覚や認識を作り上げてきたことを述べていた。元々バナナには黄色だけでなく赤茶色の品種も発売されていたが、生産者や販売会社、広告会社が科学技術を駆使することで、店頭やメディアで黄色いバナナのみが見られるようになった。その結果、人々は「バナナ=黄色」だというイメージを持つようになり、現在ではその認識が当たり前のものとなっている。このように、科学技術は人間が何らかの目的を達成するために使用されている。そのため、科学技術に欠陥や故障といった「不完全さ」は不必要であり、排除されるべきものとしてみなされる。しかし、実際のところ、科学は不完全性を伴うものである。ドミニク・チェンさんは、ものづくり・デザインの現場では、「当事者への観察」よりも「技術の導入」を重視してデザインを考えるという、「技術先行」の傾向が見られることを指摘していた。そして、「技術先行」でデザインを作ることで、作り手と受け手との間に行き違いが発生したり、作り手が受け手に対して余計な介入を行ってしまったりする危険性について言及していた。また、科学は環境破壊や争いなどの社会問題が生じる要因となり得ることについても想像に難くない。このように、科学とは完全無欠とは到底言えず、「不完全さ」を兼ね備えたものである。

ここで冒頭の記述を繰り返すが、「不完全さ」は往々にしてあまり良くない要素として社会からまなざされているのが現状だ。それでは、科学や社会には「不完全さ」を排除し、「完全さ」を目指す未来しかありえないのだろうか。本講義から私は、科学の「不完全さ」を「不完全さ」としてありのままに受容される未来もありえると考える。例えば、藤原辰史さんは、割れた器のみせる「不完全さ」から前向きな価値を見出した「金継ぎ」について説明されていた。ひびや割れ目が生じた器には、金繕いによって、金の継ぎ目という模様=「景色」が浮かび上がる。「金継ぎ」は器にひびや割れ目がないとそもそも存在し得ない。言い換えると、「金継ぎ」は、ひびや割れ目が入っていることを前提としていると言える。このような「金継ぎ」の在り方からは、ひびや割れ目といった「不完全さ」を排除したり、なかったことにしたりしているのではなく、「不完全さ」をそのままに受け入れる職人たちの姿勢が読み取れる。ここで、話を科学へと戻すと、「不完全さ」を「不完全さ」として包摂する価値観は、器だけでなく、科学においても取り入れられるのではないか。すなわち、科学も「不完全さ」があることを前提に据えた上で、その「不完全さ」とどのように付き合っていくべきか考えることができる。そもそも、「完全さ」とは得体の知れないものである。得体の知れない「完全さ」を目指して「不完全さ」を排除するのではなく、科学の「不自然さ」との付き合い方について模索していく姿勢が、これからの社会に求められているのではないだろうか。そして、そのような科学に対する社会の姿勢が、これからの未来にありえるのではないだろうか。

社会学研究科 修士課程 山田美優