第19回研究会「瞑想や禅をめぐる科学と社会の未来」

6月26日(水)17:10〜18:55

第19回研究会「瞑想や禅をめぐる科学と社会の未来」

講師 宍戸幹央氏(一般社団法人ZEN2.0 共同代表理事、鎌倉マインドフルネス・ラボ株式会社代表取締役)

 コストパフォーマンスやタイムパフォーマンス、効率化などが求められ、加速し続ける現代。一方で、その流れに疲れや疑問を感じ、瞑想やリトリート、マインドフルネスなどにも関心が集まっています。鎌倉で毎年、「ZEN2.0」という催しを主催されている宍戸幹央さんに、瞑想や禅、マインドフルネスや心の静けさをめぐる科学と社会の未来についてお話しいただき、みんなで議論していきます。

 当日は、まず、宍戸幹央先生に表題のご講演をいただき、研究会参加者による質疑応答と、先生を交えたディスカッションを行いました。

 本研究会は、一橋大学大学院社会学研究科のプロジェクト「先端課題研究21」として、学生も受講することができます。学生参加者のレポートより、こちらに参加記を掲載いたします。

参加記①はこちら(▼をクリックすると本文を折りたたむことができます。)

 経済発展、情報過多、コスパ優先の現代社会で生活していると、自分の時間が切り売りされているような感覚や、そうしたことへの閉塞感を人は少なからず抱いているのではないだろうか。「マインドフルネスは、過去(の後悔)や未来(への不安)にとらわれず、評価・判断をせずに、この瞬間に集中し、“今”を体験すること」であり、「あるがままをみる力」であるという。そうした調和へのとれた状態へ人を導いてくれる禅や瞑想は、現代を生きるわたしたちにとっての心身の避難場所となりそうだ。さらには、失ってしまった古来の身体知を取り戻す契機(もしくは未来人としての身体知の開発?)になり得るのかもしれない。
 宍戸さんの講演で特に興味深かったのが、鎌倉を瞑想や禅の発信の拠点にし、活動されていることだった。お話によると、2011年の東日本大震災後に鎌倉へ転居されたことがきっかけだったそうだ。鎌倉は山と海に囲まれ、禅宗などの寺院も多くあり、首都圏に隣接していながらも文化や自然において独特の磁場を形成している。そうした土地と瞑想や禅の実践はとても相性が良さそうであった。ZEN2.0の紹介映像にも、瞑想や坐禅をする人々の様子とともに、山の緑や寺院の清らかな空間がうつっており、見ているほうがその場所に身を置いてみたいと感じさせられるものがあった。禅の精神は、古来は花道や茶道などの生活文化に息づいていたが、現代のわたしたちが生活のなかに再びそうした精神を取り入れるには何かしらの工夫が要りそうだ。ZEN2.0は、禅や瞑想の手ほどきのみならず、特別な場所に身を置いたという一連の充足した時間を体験することに重きが置かれているのかもしれない。その後参加者がマインドフルネスを生活において実践する際、土地と結びついた記憶や身体感覚が、良き導きとなってくれるように思えるからだ。
 自然、気候、風土が人間の身体に影響を及ぼすことは大いにあり得ることだと思う。マインドフルネスの拠点としての鎌倉を考えた時、海のもつ外向性、山のもつ内向性といったところでも、マインドフルンネス的な中庸を得られるそうだ。そうしたことが、身体知や創造性、革新的なアイデアの創出に繋がりうるのかもしれない。(マインドフルネスを取り入れているような世界的な企業の拠点が、アメリカ西海岸にあることなども何か関係があるのだろうか。)
 最後に、禅や瞑想が今後の実社会においてどのように広がりをみせうるのか、展望してみたい。今回の講義では、経営者などの社会的、経済的に機動力のある人たちがマインドフルネスの実践主体となっていたが、将来的にこうした精神的な営みが社会のマジョリティに浸透した際、どのような変化が起こるのだろうか。例えば、明治神宮外苑の「再開発」をはじめとした自然の「乱開発」を抑止する方向へむかうなど、経済優先とは異なる価値観や、直感的に良いものを残そうとするマインドや行動が広がりをみせる社会などを想像した。さらには役所、行政、国家といった功利的な行動指針が強くはたらく現場や組織体にまで波及したとき、世の中はどのように変化するのだろうか。宗教や信仰と近いようでいて別種の「マインドフルネス」という心身の営みが、今後わたしたちの生にどのように交わってゆくのだろうか。その兆しを感じつつ、未来を想像した講義だった。 

社会学研究科  修士課程   古川友紀
 
参加記②はこちら(▼をクリックすると本文を折りたたむことができます。)

 今回は「禅」という普段生活しているとなかなか馴染みのないものをテーマにお話を伺ったが、単に仏教的な意味合いだけではなく生活におけるさまざまな角度からの視点があることがわかりとても勉強になった。自分は普段から「心を落ち着ける」という意味で数分程度瞑想をすることはあるものの、「禅」という形で実践したことはなく、それ自体がいかなる意味合い・効果を持つものなのか、興味を持った。
 お話を伺った中で特に印象的だったのは、「現代はSNS等によって情報過多であり、常に外に意識が向いている。情報をシャットアウトし、自己に目を向ける」というような内容の部分である。お話の中でも繰り返し、科学技術が発達した現代社会だからこそ「禅」が必要というようなことが挙げられていたが、こういった部分に大切な意味合いのようなものがあるのではないかと感じた。
 実際スマートフォンやパソコン、過度に情報化が進んだ現代社会では、常に「人からどう見られるか」という尺度に晒されているように思う。また特に日本においては小学校、中学校、高校、大学、就職と、切れ目のない外圧的な目的意識に従属することに対する圧力が強いようにも思う。「間断のない移行」といえば聞こえはいいが、それは逆に考える機会を放棄させる装置のように働いてしまっている側面があるように思う。そうして生きることをせかされ、他者の視線にも晒されていく中で、自己をゆっくりと振り返るタイミングはなかなかやってこない。だからこそ「禅」というような形で、一度その流れから自身を引き離すことは、ある意味自己を問い直す契機になりうるかもしれないと感じた。
 またお話を聞いていて気になったのは「禅」というものを宍戶さんがどのように捉えているのかという点だ。短い時間だったので大まかにしか概要はわからないが、「禅」にはパフォーマンス向上という能力向上的な意味合いと、そこに至るまでのプロセスにある心のあり様といった自己形成的な意味合いがあるように感じられた。おそらく宍戶さんのような方々は両方の意味合いでそれらを実践されていると思うが、それを伝える段階に至っては一定程度の意味の脱落もあるように思う。例えば、企業経営等のビジネスに活かそうと考えている方々にとっては、主に能力向上が目的でありそこにはプロセス自体への関心は薄いのではないだろうか。そうした場合、もちろん「禅」というものを知る入り口としてはいいものの、その全体像を伝えるための工夫が求められるようにも感じた。そういった意味で、宍戸さんがどのようなことに気をつけて活動されているのかという点に関心を持った。 

社会学研究科  修士課程   小倉優斗