6月28日(水)17:10〜18:55
第14回研究会 「五感の歴史―近代化と感覚世界の変化」
講師 久野愛氏(東京大学大学院情報学環准教授、東京大学卓越研究員)
視覚や嗅覚、味覚といった感覚は、社会や文化の影響を受けていると考えられています。講師の久野氏は『視覚化する味覚 食を彩る資本主義』などを通して、こうした人間の感覚と社会規範や文化的価値観がどのように関連しあってきたのかについて研究されてきました。久野氏とともに、「感覚」という視点から、社会と科学の未来について考えていきます。
当日は、まず、久野先生に表題のご講演をいただき、研究会参加者による質疑応答と、先生を交えたディスカッションを行いました。
本研究会は、一橋大学大学院社会学研究科のプロジェクト「先端課題研究21」として、学生も受講することができます。学生参加者のレポートより、こちらに参加記を掲載いたします。
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講義を通じて、感覚は刺激に対する自然的な出来事として自動的に生じるものではなく、文化や時代に応じた意味づけの側面があるという点を学んだ。
なかでも印象的であったのは、ある日までは普通に感じていた匂いを「臭い」と感じるようになる、という質疑応答の中でのコメントであった。例えば、私はベトナムの旅行中、匂いに違和感を覚えて周囲を見渡したところ、その原因は道端に落ちている生ゴミであることに気が付いた。そして帰国後、新宿を歩いているとベトナムで嗅いだのと同じ匂いを感じ、幾度となく訪れた新宿の匂いに生ゴミが含まれていることに気づき、初めてそれを「臭い」と記憶した、という経験がある。特定の匂いを腐敗と結び付けられたことによって、それ以前は通り過ぎていた感覚が「臭い」ものとしてラベリングされるようになったのである。
また現代の日本社会においては、体臭、口臭、腋臭、加齢臭、排泄物など、身体から発される匂いは「臭い」とされ、無臭あるいは「香り」をもつものへと変えるための努力を日々重ねている。体臭に対しては、毎日石鹼で身体を洗って無臭化させた上で、腋臭や足の臭いを抑えるためのクリームを各所に塗り、最後に香水をふって「良い香り」を身にまとう。口臭についても同様で、歯磨きに加えて、フロスや舌磨きを使って口内を細部まで磨き上げ、仕上げにマウスウォッシュを用いる。さらに持ち運べるスプレーやタブレット型のマウスウォッシュを使って、食後のわずかな時間さえも口臭が生じることを懸念する。排泄物に関しても同様で、掃除のアイテムとしてだけでなく、外出時のトイレでも使用できるような携帯用消臭スプレーが発売されている。私たちの日常生活に組み込まれているこれらの凄まじいまでの努力は、何を目的として行なわれているのだろうか。私は、臭いの印象管理を通じた周囲へのアピールのためであると考える。自然的な感覚はなく、全てが社会で構築されたものであるとすれば、「臭い」とされることになっている匂いを排除できない人は社会のルールを遵守できておらず、結果として本人も輪から外されていく。「清潔感」「身だしなみ」というスローガンのもとで、匂いを管理できる人は人々によい印象を与える一方で、管理に失敗して不快な臭いを発してしまう人は「不潔」で「自己管理ができない」存在として排斥されることがあり、臭いという感覚を指標として一種の社会秩序が形成されているといえる。
だがその一方で、自分たち以外の社会の匂いに関しては判断を保留することもある。例えば、スパイスや外資メーカーの香水など、日本社会の文化圏では馴染みがないものに関しては、即座に「臭い」とラベリングするのではなく、「独特なにおい」という表現を用いて適度な距離を取ろうと試みる。臭いが社会によって構成されるものであるならば、こうした判断のできない匂いが現れる地点にこそ社会の境界が生じているということを理解した。